人狼のレベル感について
初心者
アウトプット:自分の考えが話せない
インプット:人外や役職が分からず、根拠があやふや。正解の可能性がランダムよりも低い。
中級者
アウトプット:セオリー、経験に基づいて発言を組み立てられる。
インプット:セオリー、経験に基づいて役職や人外が分かる。
上級者
アウトプット:発言を取捨選択出来る。他人や自分の白黒についてコントロールする事が出来る。
インプット:セオリーから外れたものに対しても、正解を導き出す事が出来る。
敢えてこの様な表現を使うけれど、基本的には人狼におけるレベル感はレイヤー構造をしていて、上のレイヤーの人々は、より下のレイヤーの人々に勝つ事は難しい。
上級者達は、より広い視点で捉えている――と言っても良いかも知れない。人狼ゲームは確かにチーム戦ではあるが、個人が段階を追う事が出来るゲームでもある。
「何だか分からないけれど勝っている」と言う個人がいる場合でも、大抵の場合理由が存在するのだ。
コミュニティ文化
最初期
色々と何が有効か試行錯誤する時期。統計を取ればよく勝っているプレイヤー、負けているプレイヤーは存在しているが、そこにあまりスポットライトが当たる事はなく、最善手追求の傾向にある。
(そして、多くの場合は最善手は存在しない。)
プレイヤーが離れる主要因 : ゲーム中、何が何だか分からずに参加が遠ざかる。何度も死んでいくうちに、離れる。または形成されたコミュニティで遊ぶ事そのものが目的になる。
中期
セオリックな進行を取れるプレイヤーによって村が進む。強さ評価(名声)の多寡が現れはじめ、コミュニティによってはそれにより吊りが決まる。
「裏をかく」行動も見られるが、最終的な勝利に結びつくかどうかは不明瞭、もしくは完全に検討されない。
考えの同質化を求められる事も多く(村人なら××する筈etc.)流れが覆りにくい。
プレイヤーが離れる主要因 : 同じ展開による飽き。特定個人の発言内容(要素検討)ではなく発言結果(誰々が黒だと言ったから吊り、のような。)によってゲーム展開が進む事による能力向上の諦め。
成熟期
セオリックな行動がある程度共有された上での読み合いの発生。勝率、生存率に明確な偏りが発生する。
プレイヤーが離れる主要因 : 向上心が失われていく事。
人狼はどう言うゲームか
後出し可能なじゃんけんゲーム
基本的には熟練していけばいくほど、人外で出来る事が増えていく為、白さの重要性が薄れていき、他人の意図を読み自分が村にどの様に影響して行くか(意見を浸透させていくか)と言う方向になっていく。
人狼の他のゲームにない面白さは、ここに至って、はじめてゲームとして成立し得る読み合いが発生する事と僕は考えている。
じゃんけんと言ったが、グーチョキパー以外にも手(=投票発言襲撃)を持っていて、状況や時には気分によってそれらを使いこなし勝利を目指していくと言うゲームが人狼……と言う風に見ている。
しかし、逆に同化していく方向にあるコミュニティは村側が強く、外れ者を排除するゲームになる。
同質化を求められそれに価値を置くコミュニティでは、ある所での強者が、同じ方法論では他の文化に対応出来ないと言う事が頻発する。
プレイヤーや主催者は「勝率」を求めるあまり、人狼の面白さをスポイルしていないかは、よく吟味する必要があるように思う。
人狼プレイヤーが遊び続けるのに必要な事
セオリーを把握した上で王道を行き、そこから外れる時に別視点での検討を入れる、と言う事を繰り返していけば、例え村の展開がセオリーから離れたとしても、心理ゲームとしての本質が損なわれる事はなく、「わからん殺し」みたいなものは減っていく。
結果、初心者と経験者が近い土俵に立てる様になるのかな、と。
勝ち負けの原因が納得感のあるものとしてきっちり共有できれば、個人が自分を高めるだけでなく、コミュニティとして栄えていく事は想像に難くない。
それを目指していけば、きっと一生をかけるに足り得る趣味になっていくと僕は考えています。