人狼ゲームは誤解を受けている。

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はじめましての方ははじめまして。
いつもの方はこんにちは。らすです。

みなさんは人狼って、知ってますか。
あるいは、人狼って、どんなゲームですか?

この問いに対してどう答えればいいでしょうか。
今回は、少しこの事について、考えてみたいと思います。

人狼は「嘘つきゲーム」か?

株式会社人狼が出している『うそつき人狼』あるいは同じ会社さんが監修をしているフジテレビの『人狼〜嘘つきは誰だ?〜』から見てとれる様に、「人狼は嘘をつくもの、それを見抜くのが村側」と言うパブリックなイメージはかなり根深いし、取っ掛かりを説明するのにはとても簡単な言い回しです。
でも……果たして本当にそうなのでしょうか?

人間は嘘をつく

私たちは普段の生活では人狼として生きてはいない(もし人狼として生きている人がいたら、匿名でインタビューをしたいのでこっそり教えてください)し、殆どの人は詐欺師としては生活をしていない。にも関わらず、私たちは嘘をつきながら生きています。

例えば、社会人ならば、客先に納期を伝える時に、本当の見込み時間を伝えるのではなく余裕を見たり、あるいは、本当は残業などの社内調整が無理に必要であるにも関わらず、営業が客先に「やります」と言ってしまい、現業がその影響を被ったり。

大学生なら、「自主休講」と称してサボったり、恋愛で「素直になれない」みたいな事も、自分につく嘘の一種だと言えるでしょう。
自分は今まで何の曇りもなく嘘をついた事は一度もない、という人も世界には存在しているかも知れないが、基本的に殆どの人は何らかの形で、嘘をついた事があると思います。

この村、嘘つきしかいねーぞ!

前述の話から、「嘘を付いているかどうか」だけでは、人狼は見つからないと分かります。なぜなら、「人間も、意図するしないに関わらず嘘をつく時があるから」です。
つまり、人狼の村中で村側は「嘘をついている人間を探す」だけだと不十分で、「何のための嘘なのかを考え、探すゲーム」をしなければならないと言えると思います。

ちなみにこれは日常生活でも全く同じ事が言えて、「多くの虚実交わる他人の話の中から、自分にとって大切なものを選ぶ。」と言う行為に繋がっていき、もし「人狼ゲームの教育的効果」なるものがあるとしたら、この辺りになるだろうと自分は踏んでいます。

(しかし、日常生活の中で無実の村人を吊り上げてしまう時もある。個人的にはそこで自分の誤りを認められるのか、あるいは吊った相手を人狼に仕立て上げ自分を正当化するのかで、その人の価値観みたいなものも透けてくる様に思います。)

嘘をついてはいけないと言う暗黙のルール

どうして村側は、あるいは人は嘘をついてはいけないかのような話になったのでしょうか。
答えは単純で、「考える点を絞る為」と考えられます。
本来は意図から考えるべきものを、「村側は嘘をついてはいけない」と言う一種のローカルルールを設けることで、村という集団に思考のフレームを作り、その中で考えていくのが、基本的に効率がいい方法だからです。

しかし、思考のフレームは、フレームの外に溢れた考えを無意識のうちに除外していきます。
そしてそれは、人狼たち或いはリアルの詐欺師たちにとって、付け入る隙となりえるものなのです。

出題者と回答者たちの「役割」が与えられるゲーム

人狼の村において吊られず襲撃されず、生存する能力を持っている人は、基本的に皆、村の主役になれる素養があります。
一方で、特に吊りに掛かった村人に対しては、村の吊りが多数決で決められる事もあり、「吊られる村人に問題がある」とされる事が非常に多く、生存者側から「ここが悪かった」と言う評価を浴びる場面が見受けられます。

しかしながら、特に滅んだ村を人狼視点で見れば、この「生存者側から判断する側の姿勢」そのものが誤りであると考えます。
人狼から見れば、「吊らせる側」と「吊られる側」に役割を振り分けて、互いに適正に応じてそれを演じさせているに過ぎず、どちらも滅びには欠かせない役割であるとしか言えず、そこに優劣はないのです。

例えば反省会の中で、人狼側から「●●さんが調子に乗っていたから背中を押してあげた」と言う言われ方をする様な場合は、自分自身にこの視点が欠落しているのかも知れません。

また、村側の中で人狼を悪とする姿勢があり、また人狼を演ずる人の中でも「騙すのが辛い」と言う理由で人狼が好きではないと言う方も見受けられます。しかし、人狼は与えられた役割を演じるゲームであり、それがたまたまあなたに向いたというだけの事ですから、人狼で嘘をついたりしても、あなたを本心から責めるのは間違っていると私は断言します。
人狼の設定で、「『悪い』人狼が村の中に紛れ込み……」と言うのも、入り口としてはアリなのだろうけれど、特定の立場からの見方をしている……と言う意味で個人的には懐疑的です。

人狼はゲーム。ただし。

あたかも人狼の村中での人格がその人の人格であるかの様に捉える方がいますが、それは誤りです。人狼が強い人が人格も優れているかと言うと、それも誤りでしょう。
ここを勘違いすると、「あの人は村中と同じ様に話を聞いてくれない」とか、人間関係に真実ではない要素が入り込んでしまいます。

対面では逆に、「この人は普段喋るのに喋ってないから、何か意図があるのだろうから触らないでおこう」とか、一種のメタが入ったりもします。
(私見ですが、高名声値PLが寡黙でも吊られないの、よくないと思ってます。)

人狼の村は、人狼或いは人外を吊らなければ村が滅んでしまう、と言う設定でゲームを行います。
現実でその様な場面には中々出くわさないでしょうが、もっと軽く考えて、「別の目的を持った人と競争して、自分の目的を全体に採用させる。」と言う場面は、社会でも多々見受けられる事でしょう。
この意味で、人狼はゲームではありますが、人狼的な構造を持った、人間関係に関する訓練とも捉える事が可能です。

まとめ:人狼は何のゲームか

ここまで読んで頂いてありがとうございます。
この文章を読んだ方は、「じゃあ、人狼って何のゲームなんだろう」と、疑問に思う気持ちが芽生えているかもしれません。

ただ嘘つきを探すゲームではなく、一歩踏み込んだ時、人狼はただのゲームではない姿を、あなたの前に見せるのかもしれません、その時、「人狼ってゲームがこう言うものだ」と言うあなたの答えの中に生まれ、その答えが色んな人を幸せにするものであるよう、私は祈っています。

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